一般に『障害』というと、体や脳の機能が何か不全だったりすることを言うわけで。
んでいわゆる『障害者』の方(の中でも特に何かに秀でた人)の意見としてよく聞かれるのは「障害がどうこうではなく、その道を追求する」というようなこと。
「健常者と違う」というところから見ないで欲しいということですね。
それで、自分が思うのは、「障害という概念を取り払い、一人一人の特性として評価すべし」ということです。
えーと何が言いたいかというと、「これは病気」とか「これは障害」とかカテゴライズはしないで、みんな「誰しも、得意なこと苦手なこと出来ないことがあり、それは皆違う」という大きな捉え方ができないものかということです。
例えば今でこそうつ病は大きな社会問題となっているわけですが、それもここ数年くらいの話。それ以前は本人のやる気のなさとか、そういう風に見られていたわけで。ってことは、あることが出来なくても、何十年か経ったらその特性は「**症候群」という名前がついて立派な病気になっているかも知れないわけで。
「病名がついたら立派な患者で、そうなる前はただの落ちこぼれ」っておかしいでしょ。落ちこぼれ扱いも酷いけど、「**病」と扱われるのもなんかね。本当に苦しんでいる人を救うために「**病」って名前をつけたのかどうか疑問が残るケースもあります。水俣病とか原爆症とかは、苦しんでいるのに認定されないと言う人がとても多くいます。
「障害があるのにすごい」というような考えは『障害者』にとってうれしい評価のされ方ではないと最初いいましたが、これは見る人が『障害があるのに』という下駄を履かせる「不当に高い評価」と言えなくもないかも知れません。
そしてこの考え方は、同じフィールドにいる『健常者』にとっても良くないかもしれないのです。なぜなら『障害』には分類されないけど『障害』よりもっと難しい何かと戦いながらその道を究めんとしているかも知れないからです。とても大きなハンデを抱えているのに『障害』という分類から弾かれているために「その程度か」という「不当に低い評価」をされているケースもあるかも知れません。
これは『**病』とか『**症候群』についても同じようなことが言えるのではないかと。水俣病や原爆症が厳格な基準で認定された人だけ保障を受けられるって変です。「なんていう病気なのか」ではなくて「どんな症状に苦しめられているのか」を診てやらないといけません。
だから一人一人の「得意なこと苦手なこと出来ないこと」、いいことでも、悪いことでも、傍から見て大したことじゃなくても、それがその人にとってどれくらいの意味を持っているのか、しっかり見て考えることが大事だと思います。制度や枠組みを作るだけじゃ、そこに収まらない人がきっと出てきます。
『障害』とか『**病』とかいうものさしで人を測らない、目を養いたいものです。
最初に戻って「得意なこと苦手なこと出来ないこと」、「一人一人の特性として評価すべし」。
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なので、自分は『障害』という言葉を「身体及びその機能の一部の欠損」という意味で使わないようにしています。使うだけでその人を『**障害者』という枠に勝手に嵌めて見てしまいそうなので。
それでは相手を理解することが出来なくなってしまうかもしれないので。
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